創立以来、学園を巣立った子供たちは450余名に及ぶ、社会福祉法人 白川学園
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年
月
白川学園関連事項
1964(昭和39)
-
脇田園長、「中央精神薄弱福祉審議会」委員に就任(任期4年)。
1966(昭和41)
-
早期対応への試みとして白川学園に幼児クラスを設け、乳児院等で養育されている知的障害幼児を1.5歳より受け入れる。
1967(昭和42)
5
機関紙『つくも』創刊、以来月刊として現在約2,600部を全国に配布。名の由来は、白川の「白」は「百」に一本足りない、これを「九十九」と書き換え、大和読みにした。
1968(昭和43)
1
脇田悦三著『宅郎と私』刊行。
4
脇田園長、「日本精神薄弱者愛護協会」が前年8月、念願の財団法人格を取得できたのを受け、会長を辞任し、以後顧問に就任。
5
新園舎上棟式執行。
8
新園舎竣工(ヴォーリズ設計事務所)、「つくも館」と命名。
返還前の沖縄より私的契約で女児入園。
1969(昭和44)
12
創立60周年記念事業として園旗製作、京都紫明ライオンズクラブ寄贈。
「白」の字を図案化したシンボルマークは田村一二氏の考案。
1970(昭和45)
3
清水基金の助成により女子職員寮「清水寮」完成。
4
待鳳小学校「なかよし学級」に園児4名入学。園児就学の道が拓かれる。
8
恒例盆踊りに地元有志による模擬店が加わる。
9
脇田園長、藍綬褒賞受賞。
1971(昭和46)
3
脇田悦三著『あのこ、あのひと、あのころだ』刊行。
4
近藤孝一副園長、「京都精神薄弱愛護協会」会長に選任(任期1年)。
1972(昭和47)
8
「昭和館」解体。
10
幼児療育センター「まぶね館」竣工、ひなどり学園新園舎に。
1974(昭和49)
4
鷹峰小学校「光の子学級」開設。しかし、当初は教室がなく派遣教員を迎えて、園児4名が園内で授業を受ける。
12
「光の子学級」プレハブ教室、園内仮設。
1976(昭和51)
4
ひなどり学園園長に近藤孝一就任。
東養護学校開設、8名入学。
1977(昭和52)
7
既に年平均10ケースの利用実績があった、居宅児童を対象とする緊急一時保護について、京都市と「重症心身障害児の緊急一時保護授業」の契約を交わす。
脇田園長、「久留島武彦文化賞」受賞。
1978(昭和53)
3
脇田園長、急性胆のう炎により第二日赤病院入院。
5
1日、脇田悦三園長急逝。理事長及び白川学園園長に脇田豊が就任。
脇田悦三著『行雲流水』刊行。
流行性A型肝炎により園児全員園内隔離、職員4名入院。ひなどり学園は給食停止の後、休園となる。
6
故・脇田悦三、勲五等瑞宝章叙勲。
肝炎による園内隔離解除、ひなどり学園も保育開始。
12
園舎増築(乾燥室・食品倉庫・衣類倉庫・実習生宿泊室)。
1979(昭和54)
7
創立70周年記念祝会(於:東華会館)。
9
京都市美術館・「子供の情景」展に、学園所蔵の『白川学園の子供達』(画:北沢映月)出展。
1980(昭和55)
7
清水基金の助成により、ひなどり学園プール峻工。
1982(昭和57)
7
ひなどり学園、卒園児を対象に「サマースクール」開始。
1984(昭和59)
4
脇田豊園長、「京都精神薄弱者愛護協会」会長に選任(任期5年)。
7
ひなどり学園創立30周年記念礼拝(於:聖アグネス教会)と祝会(於:パレスサイドホテル)。
1986(昭和61)
4
西養護学校開設に伴い、東養護学校通学児童は転校。
1987(昭和62)
4
近藤孝一園長(ひなどり学園)、「京都市児童福祉史研究会」メンバーとして『京都児童福祉百年史』編纂事業に参加。
ひなどり学園、延長・夜間宿泊保育及び、学童の緊急一時利用等の家庭支援を試み、翌年度より本格的に始動。
1988(昭和63)
6
近藤園長(ひなどり学園)退職に伴い、脇田豊が両園の園長を兼務。
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