創立以来、学園を巣立った子供たちは450余名に及ぶ、社会福祉法人 白川学園
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年
月
白川学園関連事項
1928(昭和3)
11
『適材教育・壱号』刊行。文部省より社会教育功労賞を受賞。
1930(昭和5)
2
『適材教育・弐号』刊行。
12
御大典建造物を譲り受け、学舎「昭和館」完成(W・Mヴォーリズ設計)。
各種学校の認可を取得、児童数は20~25名を理想とした。
1932(昭和7)
9
司法省より少年保護司事務所嘱託を受ける。(任期9年)。
11
『異常児教育三十年』刊行。
1933(昭和8)
11
帝国教育会より教育功労賞を受賞。
1934(昭和9)
2
『適材教育普及案』刊行。
1935(昭和10)
3
京都府より鷹峯学区社会教育委員長に任命される。
1936(昭和11)
2
『悠々日本の為に』刊行。
5
園長舎増築(「長生寮」)。
10
吉井悦三を娘・知子の婿養子に迎える。
11
「日本精神薄弱児愛護協会」第3回総会が白川学園で開催され、良吉は、副会長に選任。
良吉、郷里の内宮に石碑「洗心塔」建立。
1937(昭和12)
2
園舎増築(「積善寮」)、定員30名に。
6
恩師・石井亮一死去、青山聖三一教会での葬儀には良吉も列席。
8
良吉、「世界教育会議」に参加。
1938(昭和13)
4
良吉、「日本精神衛生教会総会及研究発表会」で『治療教育の心理的価値』発表。
7
『日の丸聖戦旗制定』刊行。
1939(昭和14)
1
大阪朝日新聞社会事業団体主催「精神薄弱児童養護展覧会」に参加。
1940(昭和15)
10
良吉、「全国社会事業大会」で少年教護事業功労者として表彰。
1943(昭和18)
10
「日本精神薄弱児愛護協会」第6回懇談会が白川学園で開催される。
1945(昭和20)
1
空襲警報連夜激しく、市内からの園児は家庭引き取りに。
6
学舎「昭和館」を島津製作所の精密機械倉庫として提供。
7
創立36周年を迎えるも、園児3名。事実上、閉園に追い込まれたが、終戦により9月に再開。
10
悦三の発案により、園内に地域児童のための託児所開設。
1946(昭和21)
4
託児所を「鷹ヶ峰保育園」(定員30名)と改称。
浮浪女児の保護収容施設「北山寮」(現・児童養護施設「つばさ園」)が一乗寺に開設され、悦三が初代寮長に就任(任期1年)。
1947(昭和22)
9
進駐軍パトナム女史来園、立ち入り検査。
1948(昭和23)
3
12日、良吉死去。白川学園園長に脇田悦三が就任。
4
児童福祉法施行に伴い、白川学園を定員40名とし、鷹ヶ峰保育園は保育所として認可され、定員60名となる。園長は悦三が兼任。
1951(昭和26)
-
白川学園定員を60名とし、女子寮新設。
-
鷹ヶ峰保育園に知的障害幼児の入園希望があり、3名を試験的に受け入れる。
1954(昭和29)
ー
わが国初の試みとして、鷹ヶ峰保育園の定員60名中30名を知的障害幼児の「特別保育」に当てる。
1955(昭和30)
2
鷹ヶ峰保育園に「特別保育」を京都市の「覚書」に基づき実施。
特別保育クラスをその後、「ひなどり」と命名。
1960(昭和35)
4
鷹ヶ峰保育園を廃止し、精神薄弱児通園施設「ひなどり学園」(定員40名)を新設。
法人格を取得、「社会福祉法人 白川学園」となり、理事長には脇田悦三が就任。
1961(昭和36)
4
脇田園長、「日本精神薄弱者愛護協会」会長に就任。
6
17日、園児たちの母親的存在であった良吉の妻・てつ死去。
1963(昭和38)
4
脇田園長の「日本精神薄弱者愛護協会」の会長再選に伴い、同協会事務局を園内に移転。
鷹峰小学校に園児2名入学、卒業まで至ったのは1名。
1
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